すべての財産を共有する共同体です。私有物のない村みたいなもんですよ。
今の
キブツの原点は 西暦73年に
ユダヤ対ローマ戦争で敗北し、住む場所を失った
ユダヤ人たちが その後1800年以上も世界をさまよったあと 再び 約束の地に戻り 国を作ろうという運動から来ています。
現在でも 260個ぐらいの
キブツが存在するのかな。
1997年3月に 4年制の私立大学を卒業した私。
4回生になって 周りのみんなは 就職活動。 でも私は 2回生の時に行った 1ヶ月のカナダ留学から 海外生活の楽しさに目覚め、海外に行きたい、旅行じゃなくて住んでみたい。という気持ちが どんどん大きくなってきていた。
両親は 就職をまずして 社会経験を積んでから 海外に出てもいいんじゃないと言って私を説得しようとしたが、
”私の性格
からして 就職したらしたで その中で楽しさを見つけてしまい 変な責任感もでて その後 海外に飛び出せなくなると思う。だから 今海外に行く、なんならその後就職します。”
と言って頑なにすぐに就職することを拒んだ。
今思えば こんな理論を 頑固に言い続ける私に 許可を出してくれた両親にはただただ 頭をさげるのみ。
卒業後 リゾートバイト、住み込みバイトで お金を貯めながら、どうやったらあまりお金をかけず 長期で海外に暮らせるかを探す。
私には 兄、弟がいますが、 その一人娘が 一人で
イスラエルに行くというのです!
最初は 口をあんぐりしていた親も パンフレットを見せ、
経験談を読み とりあえず
初日につくテルアビブの
キブツボランティアセンターの住所・電話番号を見せ(そこで どこの
キブツに行くか 振り分けられます)、必ず帰ったら就職すると約束し、(
イスラエルののち 英語習得のためロンドンに滞在し そこでフランス人の旦那に出会う。よって 日本で就職することはその後ないのだが・・・・・)
なんとか 許可してもらいました。
ありがとう 両親!!(私同じことが 私の娘に将来できるかといえば・・・・)
両親は後日、”許可っていうか、ダメって言っても勝手に出て行きそうな勢いやったやん。あんた!!”と言われましたが。
キブツでは 人種を問わず多くの外国人青年を受け入れています。私が滞在した
キブツでは 覚えているだけでも15カ国以上の国籍の 18歳から40歳ぐらいまでの ボランティアがいました。会話は英語です。 カナダ留学もして 英語は まぁまぁいけると思っていた私は 自分の英語力のなさに愕然としました。しかも 英語が流暢に話せないのは きまって アジア人が多い感じでした。
ボランティアをすると 衣食住がただで 幾らかは 定かには覚えてないけれどおこずかいも月々もらえます。
ボランティア活動は 週ごとに変わり、私はその
キブツ内にある 鶏舎、工場(pachmasと呼ばれていました)、老人ホーム、食堂などでの仕事を1日7−8時間しました。
長くボランティアをしてる人には 食堂専属、牛舎専属で担っている人もいましたね。
いろいろ貴重な経験ができました。
卵を集めるのも すごく早くできるようになりました。 笑
キブツ内には 食料品店、生活用品店、学校、病院、郵便局、バー、老人ホームなど全てがあるので 基本
キブツから外に行く必要はありません。全てのものが揃った村という感じです。
私は 行きの飛行機で出会った 日本語の喋れる
イスラエル人の女の子イラーナと仲良くなり(しかも
イスラエルの空港の
ストライキのため 乗り換えの韓国ソウルで足止め1日。仲良くなる時間ができたのです。)
週末には、彼女に家に泊まりで 遊びに行かせてもらうこともできました。
彼女の家に一番近い
キブツを選んだのもこのためです。
彼女のおかげで
イスラエルの普通の家庭も覗くことが出来ました!
バイキング式になっていて 好きなものを選んで食べれます。(私太りました!)
祝日や
安息日の食事はとても豪華で 私はいつもボランティア友達と わいわい賑やかに食べていました。
イスラエルって 治安が悪いとか 物騒だとマイナスなイメージを持つ人は多いと思いますし 日本では あまり知られていないけれど
キブツ内は安全ですし 自然もいっぱい。
死海にもしっかり浮いてきましたよ私。
基本ボランティアですので ワーホリのように稼ぎたい人には向いていませんが、海外長期生活を体験したい人には 色んな国の人に会えるので すごくお勧めします。
よく食べたひよこ豆でできたファラフェル。今でも大好き!!