日本語で話しましょう

誰かの役にたちますように。フランスより愛を込めて。

28年

阪神、淡路大震災からもう28年経つんですね。

 

私は あの日 まだ大学生で実家に住んでいました。

2階の自分の部屋で寝ていると まずゴーーーという轟音で目が覚めそのすぐ後のすごい揺れ。

もう起きていた両親が階下から 私たち兄弟に 大丈夫かー?と声をかけました。

幸い 我が家は岩盤の上にたっているらしく、揺れはすごかったけど被害はほとんどありませんでした。

 

しばらくして 神戸の会社で当時働いていた父が 『会社まで行ってみる。』と出て行きましたが すぐに 『あかん、道がずたずたで車では通られへん!』といって帰って来ました。

 

実家のそばにあり通っていた大学はもちろんしばらく休校。

何かしなければならない気持ちになり 隣の市にある避難所になっていた体育館でボランティア活動をはじめました。経験も何もない私でしたが 学生のなかでは大学生はそれほどおらず 配給班のリーダーをあらよあらよと言う間に 任されてしまいました。

市の職員の方や 大人のボランティアの方に混じって 毎朝、毎晩ただ必死に動き回っていたように思います。

 

その避難所は 当時700−800人ほどの方が寝泊まりしていたと記憶しています。

配給はどんどん送られてくる援助物資の仕分けをして被災者の方に配給するのですが

なにせ被災者の方の人数が多くなかなか皆さんに公平に不平が出ないように配給するにはどうしたらいいのかというのが大きなポイントでした。

 

ぶっちゃけた話 例えばツナ缶が支援物資として送られてきます。1人1個あればいいのですが 400個しかない場合どうするのかという単純そうで単純ではない問題にあたります。

 

2人に1個?1人暮らしの人は?子供何歳から1人と数える?

と避難生活での生活が長くなれば長くなるほど そういう小さいんですが現実的な問題が次々と・・・・。

 

お弁当の配給に『家も無事だった人が食費を浮かそうと弁当を取りに来ているんだ!取り締まってほしい。』と 被災者の方から頼まれたこともあります。

 

どうやって本当に必要な人とそうでない人を見分けることができるでしょうか・・・。

 

体育館に住んでいた被災者の方に妙に気に入られてストーカーされ 家まで来られたことも。

ボランティア活動からの帰り道、ある方に車で送ってもらっている途中、交通事故にあい 後ろの座席で眠っていた私は 弾みで外にとばされたり。(奇跡的に無傷!!家族には心配かけました・・・)

 

数ヶ月の体験でしたが 今でも色々な思い出があります。

もちろん 素敵な出会いもたくさんありました。優しい言葉もたくさんいただきました。被災者の方に助けられる部分もたくさんありました。

若かっただけに 今でも苦笑いしてしまうようなこともありました。

 

言い方は間違っているかもしれませんがいい経験に私にはなったと今でも思います。

 

実家は 被害はありませんでしたが ガスがまた使えるようになるまで2ヶ月以上かかり お風呂難民になりました。電気コンロでお湯を沸かして洗面していました。

友人宅が 電気の湯沸かし器があるということで お風呂に入らせてもらいにいったこともありました。ゴルフ場で無料で入れてもらえると家族で行ったことも。

 

私の阪神淡路大震災はそんな思い出です。

被害者、被災者 そして全ての人類に祈りを。

ただただこうして今 毎日を普通に暮らせることに感謝します。